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馬

馬起源

「 天馬のごとく自在に駆け、志は四方へ。<br>ひたすら前へ進み、よき時を無駄にしない。 」

馬年生まれの人は、明るく情熱的で活力にあふれ、自由と広い世界を求めるとされる。行動が早く向上心もあり、平凡に甘んじず、動き続ける中で人生の広がりを感じる。
馬 / 起源

午 —— 地支の第七位

「午」の字は甲骨文において、杵棒のような形をしている。上端は太く、下端は細く尖り、米を搗くための木杵のように見える。その本義は「杵」あるいは「米を搗く道具」である。

後漢になると、許慎は《说文解字》で「午」を次のように説明した。「午,啎也。五月,阴气午逆阳,冒地而出。」その意味は、「午」は旧暦五月を表し、この時、陰気が陽気に逆らって上昇し、地上へ現れ始めるというものである。五月は夏の中頃にあたり、陽気は最盛に達し、陰気が芽生え始める――「午」はまさに陽と陰、盛と衰の転換点に位置している。宋代の学者・陸佃は《埤雅》に「午者,忤也。谓阳尚未屈,阴始生而逆阳也。」と記している。「午」には「抵触」「背く」という意味もあり、五月には陽気がなお盛んである一方、陰気が生じ始め、陰陽が相争うためである。

「午」は十二地支の第七位である。方位では正南に対応し、五行では陽火に属する。「午」はまた、一日の中の午時、すなわち午前11時から午後1時にも対応する。

馬 —— 字形の変遷と文字学的展開

字形の変遷

「馬」の字は、中国漢字の中でも最も古い象形字の一つである。すでに商代の甲骨文に「馬」の字が現れており、その形は一頭の馬を横から見た姿に似ている。長い顔、大きな目、なびく鬣、宙に浮いた四つの蹄、跳ね上がった尾である。甲骨文の「馬」は、馬が疾走する姿を生き生きと描いている。馬頭は左を向き、その後ろに胴体があり、二本の脚が前方へ飛ぶように伸び、鬣が風になびいている。

西周の金文になると、「馬」の字形は次第に簡略化され、記号化していった。馬頭、馬眼、胴体、脚、尾などの各部分はいずれも程度の差こそあれ簡略化された。秦代の小篆では、馬の鬣と四本の脚が四つの点へと変化した。漢代の隷書では、さらに字形が平直化された。魏晋に至って楷書が定型化すると、繁体字「馬」の形は現代漢字とほぼ一致するようになった。

後漢の許慎は《说文解字·马部》で「马,怒也,武也。象马头、髦、尾、四足之形。」と注している。その意味は、「馬」は勇武と剛健を表し、その字形は馬の頭、鬣、尾、四本の脚の全体的な姿を写したものだということである。漢字には「馬」を偏や部首とする字が数百あり、馬に関するあらゆる側面を含んでいる。たとえば毛色の「驪」「騏」、年齢の「駒」「騕」、動作の「馳」「騁」、品種や性質の「驍」「駿」などである。これは、馬が中華の先民の生活の中で極めて中心的な地位を占めていたことを示している。

文化における「午馬」の展開

「午」と「馬」の組み合わせは、中国伝統文化の中で非常に大きな影響力を持つ文化的イメージを形成した。「午馬」は剛健、進取、忠誠、迅速といった積極的で肯定的な性質を表す。「天马行空」の豪放さであれ、「一马当先」の勇猛さであれ、「老马识途」の知恵であれ、いずれも「午」と「馬」が結びついた後の精神的内涵を完全に体現している。

午と馬が組み合わされた三つの説明

時辰説

「午時」は午前11時から午後1時までを指し、また「日中」とも呼ばれる。午時は一日の中で陽気が最も盛んな時刻であり、太陽は正南の空高くにかかる。古人は馬を「陽獣」と考え、その性は火に属し、走る姿は燃えさかる烈火のようであると見なした。午時の強い日差しと陽気の最盛は、まさに馬の火性と陽剛の気質に合致する。後漢の王充は《论衡·物势篇》に「午,马也。」と記し、さらに「午亦火也,其禽马也。」とも述べている。「午」と「馬」を組み合わせる核心的な論理は、まさに「午火」と「馬火」の五行上の対応にある。

星辰説

時辰と五行だけでなく、「午」と「馬」の組み合わせには天文学の影響もあった可能性がある。古人は天上の「房宿」、すなわち二十八宿の一つを「天駟」と呼んだ。これは天馬を意味する。房宿は古代星象学において、ちょうど正南の「午」の位置、すなわち南を午とする方位にあったため、「午」に「馬」を配することには天文学上の根拠もあった。さらに古人は「乾為馬」と考えた。乾卦は方位上、正南に対応し、「午」の方位と一致する。馬は「乾象」であり、剛健進取の象徴である。《周易·乾卦》の「天行健,君子以自强不息」は、まさに「午馬」が伝える核心的精神である。

馬歯説

晋代《博物志》には「马无四足,两耳十五。」と記されている。古人は馬について独特な見方をしており、馬には四本の足、すなわち蹄がなく、二つの耳があり、その耳には十五の「歯」があると考えた。馬が満十二歳を過ぎると、その後は一年ごとに一つ「歯」が増える。「午」は十二地支で第七位にあり、馬も十二生肖で第七位にあるため、両者が互いに対応するとされた。

典籍における記載

秦簡《日书》

1975年、湖北省雲夢県睡虎地十一号秦墓から出土した竹簡《日书》の《盗者》には、十二生肖に関する組み合わせが記録されている。この墓は秦始皇時代、すなわち紀元前3世紀のものとされる。しかし、この一覧には非常に特別な点がある。「午」と組み合わされているのが「馬」ではなく、なんと「鹿」なのである。これは現代の標準的な十二生肖とは明らかに異なる。今日では「午」に「馬」を配するが、秦簡では「午」に「鹿」を配している。これは戦国末期から秦代にかけて、十二生肖はすでに一定の形を持ち始めていたものの、「午」の位置に対応する動物はまだ固定されていなかったことを示している。

甘粛省天水の放馬灘から出土した秦簡《日书》甲種にも十二生肖が記されており、その中で「午」に対応する動物は「馬」である。放馬灘秦簡の記載は、子鼠、丑牛、寅虎、卯兔、辰虫、巳蛇、午馬、未羊、申猴、酉鸡、戌犬、亥豕であり、この一覧は現代の標準的な十二生肖にすでに非常に近い。注目すべきことに、放馬灘秦簡には別の箇所で「午」に「羊」を配する記載もある。湖北省随州の孔家坡漢簡《日书》でも、「午」に「馬」あるいは「鹿」を配している。各地の秦簡では「午」の位置に対応する動物に違いがあり、鹿を配するもの、馬を配するもの、羊を配するものがある。これは戦国末期から秦代にかけて、十二生肖体系がまだ完全には統一されていなかったことを示している。

放馬灘秦簡に見える十二生肖の記載は、十二生肖に関する最古の、比較的完全な文献記録であり、中国古代の十二生肖の起源と形成を研究するうえで非常に重要な価値を持つ。

後漢《论衡》

伝世文献の中で、現代と同じ十二生肖を最も早く記録したものは、後漢の王充による《论衡》である。王充は《论衡·物势篇》に「午,马也。」「午亦火也,其禽马也。」と明確に記している。王充は《论衡·物势篇》の中で十二生肖と十二地支を一つずつ対応させている。鼠を子、牛を丑、虎を寅、兔を卯、龍を辰、蛇を巳、馬を午、羊を未、猴を申、鸡を酉、狗を戌、猪を亥に配している。これは後漢時代、すなわち1世紀には、「午」と「馬」の組み合わせが最終的な定型化を完了していたことを示している。

戦国末期から秦代の秦簡《日书》では、「午」の位置に対応する動物に鹿、馬、羊など複数の差異が残っており、当時は各地で「午」の属相に対する認識がまだ統一されていなかったことが分かる。後漢《论衡》になると、「午」に「馬」を配する形が最終的に定型化した。この変化の背後には、秦漢の大一統が文化統合を推進したことが反映されていると同時に、人類にとって最も重要な役畜の一つであった馬の社会的地位と経済的価値が、ますます広く認められるようになったことも示している。

生肖俑と馬形文物

北魏から唐代までの生肖俑の伝統

十二生肖俑は十二支神俑とも呼ばれ、中国古代の墓葬文化において独自の特色を持つ副葬品である。唐代墓葬からは、獣首人身の十二生肖陶俑が大量に出土しており、その中の午馬俑は馬首人身で、文官の服装をしている。唐代《唐会要》には、生肖俑を副葬する際の礼制上の規範が記されている。十二生肖陶俑は墓葬内で固定された配列順序を持ち、墓室の四隅にそれぞれ配置され、東・南・西・北に各3体、鼠を始まりとし猪を終わりとして、子南午北の方位に従い時計回りに並べられた。馬俑は通常、正南を表す方位、すなわち十二地支の方位において午が対応する方向に安置された。

商周時代 —— 青銅車馬

商代晩期の馬車坑(河南省安陽・殷墟): 殷墟からは数十基の馬車坑が出土しており、それぞれの坑には二頭の馬と一台の車がある。これは中国最古の馬車実物遺存である。

西周青銅車馬器: 西周時代には馬車の製作技術がさらに精緻になり、青銅製の車馬装具、たとえば馬銜、馬鑣、当盧などが大量に出現した。

秦漢時代 —— 兵馬俑と画像石

秦始皇陵兵馬俑(陝西省西安、紀元前3世紀): 秦始皇陵の兵馬俑坑からは数千体の陶馬俑が出土している。これらの陶馬は体格が大きく、比例が均整で、姿勢も生き生きとしており、車を引く挽馬と騎兵の乗馬の二種類に大別される。秦代の陶馬は中国古代彫刻芸術の宝である。

漢代「馬踏飛燕」銅奔馬(1969年、甘粛省武威雷台漢墓出土): 通高34.5センチ、長さ45センチ。馬は疾走する姿を見せ、三本の脚を宙に上げ、一脚を飛ぶ燕の上に置いている。この作品は、漢代の人々が駿馬の神速をどのように理解していたかを生き生きと表現している。「馬踏飛燕」は現在、中国観光の象徴的な図案の一つとなっており、《第一批禁止出境展览文物目录》にも収録されている。

漢代画像石上の馬: 山東、陝西、河南などから出土した大量の漢代画像石には、車馬出行や射猟などの場面が刻まれており、漢代馬文化の貴重な記録となっている。

唐代 —— 三彩馬と墓俑

唐三彩馬: 唐代は中国古代彫刻芸術の黄金期であり、三彩馬は唐代陶塑の代表作である。唐代三彩馬は体格が大きく、造形が豊満で、釉色も華やかであり、唐代社会の繁栄と馬文化の最盛をありのままに映し出している。

唐代彩絵十二生肖陶俑: 唐代墓葬からは獣首人身の十二生肖陶俑が大量に出土しており、その中の午馬俑は馬首人身で、文官の服装をしている。現在、陝西歴史博物館などの機関に収蔵されている。

円明園馬首銅像

円明園の馬首銅像は、清代乾隆年間にイタリア人宣教師・郎世寧が設計を主導し、フランス人・蒋友仁が監修した海晏堂水力時計の時報システムの一部である。十二体の獣首人身像は「八」の字形に海晏堂前の噴水池の両側へ並べられていた。それぞれの時辰になると、対応する獣首の口から水が噴き出して時刻を知らせた。午時、すなわち午前11時から午後1時には、馬首銅像の口から水柱が噴き出した。

1860年、英仏連合軍が円明園を焼き払い、十二生肖銅像は略奪されて海外へ流出した。馬首銅像は百年以上にわたって海外を流転した。2007年、馬首は愛国人士・何鴻燊氏によって6910万香港ドルで購入され、2019年に正式に中国国家文物局へ寄贈され、円明園へ帰還した。馬首は、十二生肖獣首の中で最初に円明園へ戻った原物である。

馬文物の文化的内涵

中国古代の文物と芸術品において、馬の姿は戦馬から駿馬へ、写実から写意へと変化してきた。商周時代の馬車坑の馬は、戦争と権力の象徴であった。漢代「馬踏飛燕」の馬は、速度と自由の象徴であった。唐三彩馬の馬は、繁栄と富貴の象徴であった。明清絵画の馬は、文人精神の寄託となった。

馬の起源と馴化

馬は哺乳綱、奇蹄目、馬科に属する。中国国内における馬の馴化の歴史は、新石器時代晩期、今からおよそ4000~5000年前にまで遡ることができる。中国は世界で最も早く馬を馴化した地域の一つである。考古学者は甘粛、陝西、内モンゴルなどの新石器時代晩期遺跡から馬骨を発見しており、遠古の時代にはすでに馬が人類生活の重要な動物であったことを示している。しかし、馬を肉食の供給源から戦備用具と交通手段へと本当に変化させたのは、商周時代以降である。中国古代北方の遊牧民族は、馬の馴化と利用において極めて重要な役割を果たした。

史前遺跡の馬骨

現在までに、考古学者は新石器時代から商周時代にかけての数十か所の遺跡から馬骨遺存を発見している。

甘粛省永靖・大何庄遺跡(斉家文化、今から約4000年前): 馬骨が出土しており、西北地域における初期の馬の実物証拠である。陝西省宝鶏・石鼓山遺跡(商周時代): 馬骨と馬車遺跡が出土している。河南省安陽・殷墟遺跡(商代晩期): 大量の馬骨と馬車坑が出土しており、商代晩期にはすでに馬が戦争と交通に用いられていたことを示している。北京昌平・白浮遺跡(西周時代): 完全な馬骨格が出土しており、西周時代の馬文化に関する重要な考古学的発見である。

馬が肉食から役用へ移った歴史的変化

最初に人類によって馴化された馬は、主として肉食の供給源と乳の供給源として利用された。商周時代になると、馬車と馬具の出現に伴い、馬は次第に交通と戦争に用いられるようになった。春秋戦国時代、騎兵が興隆すると、戦争における馬の地位はさらに高まった。秦漢時代には、馬は国家戦略資源となった――「国之大事在戎,戎之大用在马」――馬の地位は歴史上の頂点に達した。

馬の生物学的特性と生肖文化との関連

馬が十二生肖に選ばれ、第七位に位置することは、その生物学的特性と密接に関係している。馬は陸上を走る家畜の中で最も速いものの一つであり、速度と力の象徴である。馬には勇猛な一面と忠誠な一面があり、人類との関係が極めて密接である。馬はまた、体格が最も大きな家畜の一つであり、人々に力と威厳を感じさせる。馬はよく動き、気性が激しく、暑さを恐れず、「陽火」の代表とされ、午時の陽気最盛と一致する。

午馬に関する神話伝説は、その数の多さと物語の生き生きとした展開において、十二生肖の中でも上位に位置する。天馬の降格から伯楽の相馬、「馬王爺三つ目」から「白龍馬の取経」まで、馬の神話的イメージは天界と人間界、戦争と平和にまたがる多くの領域を横断している。

創世と英雄叙事

天马が人間界へ降格される

これは、馬がなぜ天上から人間界へ来たのかを語る最も古典的な伝説であり、最も広く伝わり、物語の展開も最も曲折に富み、生き生きとしている。

天馬の本来の姿 —— 玉帝の御前飛馬

伝説によれば、非常に古い時代、馬の背には一対の翼が生えていた。それは天馬と呼ばれ、玉帝の御馬であり、地上を走り、水中を泳ぎ、空を飛ぶことができた。天馬は神力が並外れているだけでなく、さまざまな法術も使うことができ、玉帝が最も寵愛した神獣の一つであった。天馬は玉帝に深く寵愛されたため、次第に驕横跋扈するようになった。天宮の中でしばしば乱暴に駆け回り、横暴に振る舞って天宮を安らかならぬものとし、神仙たちは苦情を絶やさなかった。ある日、天馬は天宮で遊ぶことに飽き、手綱を振り切って天宮の外へ飛び出した。東海龍宮の門前まで来ると、威勢を誇示しながら中へ押し入ろうとした。東海龍王はこれを知ると激怒し、天馬と激しい戦いを繰り広げた。天馬は翼を持ち、法力も武力も弱くなかったため、龍王と天地が暗くなるほど戦った。しかし最後には、龍王の途方もない法力には敵わず、翼を傷つけられた。傷が治った後、天馬はさらに驕慢になり、玉帝の隙をついて密かに人間界へ降りた。

天馬の災い —— 崑崙へ降格される

天馬は人間界へ来た後、ますます無法になった。人類のために何一つ良いことをしないばかりか、作物を踏み荒らし、民衆に衝突し、人間界を大混乱に陥れた。民衆は天馬の害に苦しみ、次々と香を焚いて天庭へ訴え、玉帝に天馬を罰するよう求めた。玉帝はこれを知ると激怒し、天馬の翼を削ぎ落とすよう命じた。それ以来、馬は二度と空を飛べなくなった。さらに玉帝は、天馬を崑崙山の下へ押送し、三百年間押さえつけ、身動きできないように命じた。

天馬の改心 —— 翼を失い人間界へ

三百年後、玉帝は天馬のかつての功績を思い、崑崙山から解放した。この時、天馬の両翼はすでに削ぎ落とされ、二度と飛ぶことはできなかった。人間界へ降格された天馬は、それ以後、人類の仲間となった。人のために車を引き、田を耕し、荷物を運び、戦いに赴いた。天馬は自分が天条を犯したことを深く理解し、それ以来徹底して改心し、苦労を厭わず人類に尽くした。戦乱の時代には甲冑と鞍をまとい、先頭に立って戦い、赫々たる戦功を立てた。平和な時代には田畑を耕し、車を引き、荷物を運び、人間と苦楽を共にした。人類は天馬の功績に感謝し、次々と玉帝に推薦したため、天馬は十二生肖に選ばれることとなった。

「天马行空」の由来

馬はもはや飛ぶことができなくなったが、それでも地上で最も速く走る動物であった。古人は、馬が陸上を極めて速く駆ける姿と、天馬がかつて空を飛んでいた場面を結びつけ、「天马行空」という成語を生み出した。これは天馬が駆ける神速を表すと同時に、才気に富み、気勢が豪放であることの比喩にも用いられる。

人物と典故における馬

伯楽相馬

春秋時代、孫陽という人物がおり、馬の良し悪しを見分けることに非常に優れていた。彼が見込んだ馬は、必ず千里馬であった。神話伝説の中で天馬を司る星の名が「伯楽」であったため、人々は孫陽を「伯楽」と呼ぶようになった。

伝説によれば、ある時、伯楽は楚王から、一日に千里を走る駿馬を探すよう命じられた。伯楽は数か国を巡り、多くの馬を細かく見たが、気に入る千里馬を見つけることができなかった。ある日、伯楽は道で痩せこけた一頭の馬を見た。その馬は塩車を引いて坂を登っており、一歩進むごとに非常に苦しく、疲れ果てて息を切らしていた。伯楽は近づいて注意深く観察した。この馬は外見こそ痩せ弱っていたが、骨格は並外れ、普通の馬とは異なっていた。伯楽は、これは得難い千里馬であると判断した。伯楽は御者に言った。「この馬を車引きに使えば、普通の馬にも及ばない。しかし楚王に売れば、一日に千里を走ることなど何でもない。」御者は伯楽が冗談を言っていると思い、気前よく馬を伯楽に売った。

伯楽はこの痩せ馬を楚王の前へ連れていった。楚王は馬が骨と皮ばかりに痩せているのを見ると、伯楽が自分を愚弄していると思い、非常に怒った。伯楽は慌てずに説明した。「これは確かに千里馬です。ただ長い間、車を引かされ、十分に餌を与えられていなかったため、これほど痩せているだけです。よく餌を与えれば、半月もせずに必ず千里馬本来の姿を取り戻します。」楚王は半信半疑で、最も優秀な馬丁にこの馬を丹念に飼育させた。すると本当に半月も経たないうちに、馬は逞しく神駿な姿になった。頭を上げて嘶くと、その声は大きく、雲をも止めるほどであった。楚王が馬の背に跨ると、両耳に風が生じ、雲霧に乗って飛ぶかのように感じ、瞬く間に百里以上を走り去った。楚王は大いに喜び、それ以来この千里馬をことのほか寵愛した。

後に、伯楽相馬は千古に伝わる典故となった。人々は「伯楽」を人材を見いだすことに長けた人物の比喩として、「千里馬」を卓越した人材の比喩として用いるようになった。

老馬識途

春秋時代、斉桓公が兵を率いて山戎を攻めた際、途中で道に迷った。斉桓公の大臣・管仲は「老馬は道を知っています。何頭かの老馬を先頭に歩かせてはどうでしょう」と提案した。斉桓公は管仲の提案に従い、数頭の老馬を放して軍の最前列を歩かせた。すると老馬たちは本当に来た道を辿り、斉軍を困境から導き出した。

「老马识途」という典故は今日まで伝わり、経験豊富な人は事情に通じ、複雑な環境の中でも方向を見つけることができるという比喩に用いられている。この典故において、馬には「知恵」と「経験」の象徴が与えられている。馬は単に体力の強者であるだけでなく、知恵における長者でもある。

民間信仰と文学における馬

馬王爺の三つの目

中国の民間伝承において、「馬王爺」は馬を司る神であり、馬を飼う者、車夫、騎兵から守護神として祀られている。馬王爺はまた「馬神」「馬明王」とも呼ばれ、民間伝承では、天馬が人間界へ降りた後に修行して神となったとされる。一般の馬と異なり、馬王爺には三つの目がある。額にもう一つ神の目があるのである。この目は玉帝から授けられた「慧眼」であり、世の中のあらゆる善悪忠奸を見分けることができる。

伝説によれば、明代、燕王朱棣、後の明成祖が軍を率いて出征し、河北一帯で戦った。戦況が最も危機的となった時、朱棣の軍はほとんど敵軍に包囲されてしまった。朱棣が途方に暮れていたその時、突然、一頭の棗紅色の神馬が天から降りてきて、朱棣を背に乗せ、包囲を突破した。この馬は非常に速く走り、瞬く間に数百里を走り抜け、敵軍はまったく追いつけなかった。朱棣が危機を脱した後、その神馬は突然姿を消した。朱棣は、これは馬王爺が顕現して助けてくれたのだと信じ、全国に馬王廟を建て、馬王爺の神像を祀るよう命じた。

《西游记》の白龍馬

中国古典小説《西游记》では、馬の姿が濃密に描かれている。唐僧が西天へ取経に向かう際の乗馬である白龍馬は、もともと西海龍王の第三太子であった。

白龍馬はもともと西海龍王・敖閏の第三太子で、玉龍三太子と呼ばれていた。宮殿の明珠を火事で焼いてしまったため、父から天庭へ訴えられ、玉帝は彼を忤逆の罪で斬首に処そうとした。危機一髪の時、観音菩薩が通りかかり、玉帝に取りなして、死罪を免れさせた。観音は玉龍三太子に、鷹愁澗で唐僧の到来を待ち、唐僧が西天へ取経に向かう際の脚力となるよう命じた。

唐僧が鷹愁澗を通った時、玉龍三太子は突然、澗から飛び出し、一口で唐僧の白馬を食べてしまった。孫悟空と戦ったが、玉龍は敵わず、水底へ逃げ込んだ。後に観音菩薩が到着し、玉龍三太子を導いて、一頭の白馬に変え、唐僧を乗せて西天へ取経に向かわせた。それ以来、白龍馬は馬の姿で唐僧に従い、九九八十一難を経て、ついに西天へ到達した。取経が成功した後、白龍馬は如来仏祖から「八部天龍馬」に封じられた。彼は龍の身体を取り戻し、華表柱に巻きついた。

白龍馬の物語は、馬と龍の関係を最も生き生きと表したものである。龍は馬に化すことができ、馬は龍になることができ、龍と馬は本来一体なのである。

馬神崇拝

中国の民間信仰において、馬は「馬神」として尊ばれ、専用の「馬王廟」あるいは「馬神廟」が設けられて祭祀が行われた。かつて馬を飼う者や車夫は、毎年旧暦六月二十三日、伝説では馬王爺の誕生日とされる日に馬神を祀り、馬の健壮と旅の平安を祈った。「馬神」信仰の形成は、農業と戦争における馬の中心的地位と密接に関係している。人々は馬の忠誠と労苦に感謝し、馬を神格化して崇敬した。この信仰もまた、馬が十二生肖に選ばれることのできた社会的基盤である。

生肖文化は伝播の過程で各国固有の文化要素を取り込み、馬の姿は東アジア各国で異なる様相を呈している。

日本

日本の十二生肖は中国と完全に一致している。鼠、牛、虎、兔、龍、蛇、馬、羊、猴、鸡、狗、猪である。馬も同じく第七位に位置する。日本文化において、馬は力と速度の象徴と見なされている。日本の神社にはしばしば「絵馬」があり、これは神社に奉納する木の板絵で、その上には馬の姿が描かれ、願いが叶うことを祈るために用いられる。馬年生まれの人は、活力に満ち、行動力が強く、積極的に前へ進むと考えられている。

ベトナム

ベトナムの十二生肖でも、馬は同じく第七位に位置する。ベトナムの生肖体系は中国と基本的に一致しており、唯一の違いは「兔」の代わりに「猫」を用いることである。馬はベトナム文化において力と自由の象徴であり、ベトナムの民間物語にも馬の肯定的な姿がしばしば登場する。

朝鮮半島

朝鮮半島、すなわち朝鮮・韓国の十二生肖は中国と完全に一致している。韓国文化において、馬は積極性、進取、成功の象徴と見なされている。韓国の多くの民間芸術には馬の姿が見られる。

共通点と相違点

馬は東アジア各国の生肖体系において、いずれも第七位に位置する。この共通した順位は、東アジア文化圏全体における馬の普遍的な重要性を反映している。しかし細部には違いがある。中国では「天马行空」「龙马精神」、そして伯楽相馬という人文的典故を強調する。日本では「絵馬」の祈願文化が際立つ。ベトナムと朝鮮半島は、基本的に中国の馬文化の伝統を受け継いでいる。これらの違いはまさに、生肖文化が異文化間を伝播する中で持つ生命力と適応性を示している。

午馬という生肖の起源と変遷を通観すると、多元から統一へ、地域から全体へという変化の脈絡が明確に見えてくる。文字と文献は、午時に陽気が最盛となること、そして馬が「陽獣」であり火に属することから、地支「午」の「陽火」属性と五行上で完全に対応していることを伝えている。しかし、戦国末期の秦簡《日书》では、「午」の位置に対応する動物は地域によって「鹿」「馬」「羊」という三つの異なる姿を示している。睡虎地秦簡では鹿、放馬灘秦簡では馬、孔家坡漢簡では馬と鹿の双方が見られる。この地域差は、秦漢大一統以前、十二生肖体系がなお各地でそれぞれ独自の形を持つ多元的な状態にあったことを示している。後漢の王充《论衡》の記載に至って初めて、「午」に「馬」を配する形が最終的に定型化した。秦漢の文化統合によって、馬は生肖第七位という固定した席へと押し上げられたのである。

考古学は、馬と中華文明が共に歩み、共に発展してきた歴史を明らかにしている。新石器時代晩期の馬骨遺存から殷墟の馬車坑、秦始皇陵の陶馬俑から漢代「馬踏飛燕」の銅奔馬、唐三彩馬の華麗さから円明園馬首の波瀾に満ちた歴史まで、馬の中国史における地位は、肉食の供給源から戦備資源へ、交通手段から文化記号へと絶えず高まり、一度も途絶えることはなかった。馬は農業生産の助手であるだけでなく、国家戦略の核心でもあった――「国之大事在戎,戎之大用在马」。

午馬に真に魂を与えたのは、浩瀚な神話と伝説である。民間から生まれたこれらの物語の中で、馬は翼を削がれ、天庭から人間界へ降格されながらも最後には改心した天馬であり、伯楽の慧眼によって見いだされた千里馬であり、老馬識途の知恵ある長者であり、三つの目を持つ馬王爺という守護神であり、《西游记》の「八部天龍馬」に体現された龍馬一体でもある。馬の姿は、傲慢から謙虚へ、天界から人間界へ、神獣から仲間へと変化していった。この完全な変化の叙事が、馬に「改過自新」「忠誠奉献」という文化的品格を与えたのである。

生肖馬が中原を出て、日本、ベトナム、朝鮮半島へ伝わると、それぞれの文化の中で新たな姿を得た。日本では絵馬による祈願、ベトナムでは力の象徴となった。しかし一方で、十二生肖第七位という尊位は常に保ち続けた。これはおそらく、一つの文化記号の生命力が、それが一切変わることなく複製されるかどうかにあるのではなく、十分な包容力と象徴力を備えているかどうかにあることを示している。午馬は、まさにそのような記号である。遠古の草原から疾駆して現れ、戦車を背負い、文明を運び、中華の大地に最も豪快な一筋の蹄跡を刻んできた。

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