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重陽節

重陽節重陽節の習俗

「 遥知兄弟登高处,遍插茱萸少一人。 」

重陽節は先秦時代に起源を持ち、唐代に正式に民間の節日と定められた。王維は十七歳のとき長安に客居して『九月九日憶山東兄弟』を詠んだ:「独在异乡为异客,每逢佳节倍思亲。遥知兄弟登高处,遍插茱萸少一人。」(*異郷に独りあれば異客となり、佳節に逢うごとに思親…

高い場所へ登る登高は、重陽節を最も代表する伝統行事であり、そのため重陽節は「登高節」とも呼ばれる。この習俗の起源については、主に三つの文化的背景が語られている。第一は、高い場所へ登ることで災厄を避けられるという信仰、第二は中国古代における山岳崇拝、第三は秋の「辞青(緑に別れを告げる)」という習俗である。また、菊を愛で、菊花酒を飲むことも重陽節の重要な季節習俗である。茱萸を身につけることには邪気や災いを遠ざける意味があり、重陽糕(重阳糕)を食べる習慣には、糕(gāo、餅・菓子)と高(gāo、高い)が同音であることから、運勢や地位が一歩ずつ上昇していくという吉祥の意味が込められている。

重陽節はまた、中国における伝統的な祖先祭祀の日の一つでもあり、この日に墓参りをする地域も多い。1989年には、旧暦九月九日が正式に「敬老節」として位置づけられ、社会全体で高齢者を敬い、尊重し、いたわり、支えるという意識が強く打ち出されるようになった。

重陽節 / 重陽節の習俗
重陽節まであと350日 2027年10月8日 · 旧暦 九月初九

主な風習

中心となる礼俗

登高

歴史的起源

重陽節の登高習俗は、少なくとも漢代まで遡ることができる。梁代の呉均(吴均)が著した『続斉諧記(续齐谐记)』によれば、東漢の汝南に桓景という人物がおり、仙人費長房(费长房)に道術を学んでいた。あるとき費長房は桓景に次のように告げたとされる。

「九月九日、汝の家には災いがある。急いで家を出よ。家族それぞれに赤い袋を作らせ、その中に茱萸を入れて腕に結び、高い場所へ登り、菊花酒を飲め。そうすれば災いを免れられる。」

桓景はその言葉に従い、家族全員を連れて山へ登った。夕方に帰宅すると、家に残していた鶏、犬、牛、羊がすべて突然死んでいたという。伝説では、これをきっかけに、旧暦九月九日に高い場所へ登って災厄を避ける習俗が民間に広がったとされる。

登高はまた、中国古代の山岳崇拝とも深く結びついている。山には人を守る霊的な力があると考えられていたうえ、重陽は陽の気が極まる日、すなわち「陽極必変(阳极必变)」の時とされ、変化に伴う危険を避けるために山へ向かうという意味づけも生まれた。また、この時期には秋の収穫がほぼ終わっていたため、人々が郊外へ出て遠くの景色を眺めるのにも適した時期だった。

唐代になると登高は重陽節を最も象徴する習俗となった。王維の有名な句、

「遥知兄弟登高处,遍插茱萸少一人。」 遠くから思う。兄弟たちはいま高みに登り、皆が茱萸を身につけているだろう。ただ一人、そこに私がいない。

は、この習俗を最も鮮やかに描いた文学表現の一つである。隋唐期には重陽節そのものが正式な節日として確立し、登高の伝統も今日まで受け継がれてきた。

習俗

登高は重陽節を最も代表する行事であり、重陽節が「登高節」と呼ばれる理由でもある。旧暦九月は空気が澄み、景色を遠くまで見渡せる季節であり、高い場所へ登ることは眺望を楽しみ、気分を晴らし、身体を動かす行為であると同時に、伝統的には病や災厄を避ける意味も持っていた。

その文化的起源は、主に災いを避ける登高伝説、山岳崇拝、そして「辞青」の三つに整理できる。「辞青」は清明節の「踏青」と対をなすもので、春の踏青が新緑を迎える外出であるのに対し、重陽の辞青は秋の最後の緑に別れを告げる外出である。

登る場所は地域や時代によってさまざまであった。都市では城壁、楼閣、塔、亭、高層建築などへ登り、農村では近隣の丘や山に登った。山がない地域では、高台や土坡でも代用された。裕福な家庭では輿に乗り、酒や食べ物を携えて高所で宴を開くこともあった。茱萸、菊花酒、秋景色、詩作などが一つの登高行事の中に組み合わされることも多かった。

文化的意味

古代の人々にとって登高は、単なる身体運動ではなく、精神を整える行為でもあった。秋の高所から大地を眺め、天地の広がりや季節の移り変わりを感じながら、年の緑に別れを告げ、時間の流れを意識する機会でもあった。

また、登高は祖先への思いとも結びつき、中国文化における「天人合一」の理想を体現する習俗でもある。

参加方法

重陽節には、近くの山、丘、塔、展望台などへ登ることで伝統に触れられる。都市部では、公園の高台や展望塔、一般開放されている高層建築なども適している。多くの観光地では重陽の登高イベントが開かれる。

歩きやすい靴、水、軽食を用意し、高齢者は無理のないルートを選ぶことが重要である。何よりも安全を優先したい。

菊を愛で、菊花酒を飲む

歴史的起源

菊を観賞し、菊花酒を飲む習俗は漢代まで遡ることができる。『西京雑記(西京杂记)』には、

「九月九日、茱萸を佩び、蓬餌を食し、菊花酒を飲む。人を長寿ならしむと云う。」

と記されており、漢代にはすでに旧暦九月九日と菊花酒が結びついていたことがわかる。魏晋期になると菊の観賞はいっそう盛んになった。詩人陶淵明(陶渊明)は菊をこよなく愛したことで知られ、

「采菊东篱下,悠然见南山。」 東の垣根の下で菊を摘み、悠然として南山を眺める。

という名句によって、菊を愛でる行為は文人たちの風雅の象徴となった。

やがて、この風習は文人階層だけのものではなく、民間へと広がり、社会全体で共有される節日習俗となった。伝統的な菊花酒は、重陽の日に仕込み、翌年の重陽まで開けないこともあった。この一年間の待ち時間そのものが、儀礼的な意味を持っていたのである。

習俗

菊を愛でることと菊花酒を飲むことは、重陽節を代表する二つの習俗である。ちょうどこの時期は菊が満開を迎えるため、旧暦九月は「菊月」とも呼ばれた。多くの花が枯れ始める晩秋にあって、菊だけは毅然と咲くことから、清らかさ、忍耐、節操の象徴となった。

菊花展では、単に花を眺めるだけでなく、品種、花形、色彩を比較して楽しむ。黄色、白、赤、紫、桃色など多彩な色があり、平弁、匙弁、管弁など多様な花形がある。伝統的な文人文化では、菊の観賞に酒と詩作が組み合わされ、秋の雅会を形成した。

菊花酒は、重陽を代表する飲食文化でもある。古くは邪気を払って福を招く吉祥の酒と考えられた。開花期の菊を茎や葉ごと採り、黍などとともに醸し、翌年の重陽まで封じておく方法もあった。

中国の伝統薬学では、菊には清熱・明目などの性質があるとされ、民間では肝を養い、目を明らかにし、頭をすっきりさせ、長寿を助ける酒として語られてきた。

文化的意味

菊は晩秋に毅然と咲くため、高潔、忍耐、節操を象徴する。菊花酒には災いを避け、福を得る願いが込められている。花を眺め、酒を味わうという二つの行為は、自然の美への鑑賞と、健康や幸福への願いを結びつけている。

参加方法

重陽の時期には、公園や植物園の菊花展を訪れることができる。北京、開封、杭州などの菊花展は特に有名である。菊花酒を試すこともでき、酒を飲まない場合は菊花茶でもよい。

伝統的な醸造に興味があれば、安全な方法と適切なレシピに従って事前に菊花酒を仕込むこともできる。写真撮影や写生、静かに花の間を歩くことも、十分に重陽の文化を味わう方法となる。

茱萸を身につける

歴史的起源

茱萸に邪気を払う力があるという考えは、漢代にはすでに記録されている。『西京雑記』には、

「九月九日、茱萸を佩び、蓬餌を食し、菊花酒を飲む。人を長寿ならしむと云う。」

とあり、旧暦九月九日に茱萸を身につける習慣が、漢代にはすでに成立していたことがわかる。茱萸には邪気を払い、疫病を避け、長寿を助ける力があると信じられていた。

この習俗は、桓景の伝説とも深く結びついている。家族が災いを避けて高所へ登る際、全員が「赤い袋を作り、その中に茱萸を入れて腕に結ぶ」よう命じられたとされる。現在では日常的に茱萸を身につけることは少なくなったが、今なお重陽節を象徴する文化記号の一つである。

習俗

茱萸を身につけることは重陽の代表的な習俗であり、そのため昔は重陽節を「茱萸節」とも呼んだ。茱萸は芳香を持つ植物で、虫を遠ざけ、寒気を払い、邪気から身を守るものと考えられていた。旧暦九月九日は災いが起こりやすい日とも考えられたため、人々は茱萸を身につけて厄除けを願った。茱萸はその象徴性から「辟邪翁(邪を払う老人)」とも呼ばれた。

身につけ方はさまざまで、髪に挿す、腕に結ぶ、砕いて香袋に入れる、赤い小袋に入れて携帯するなどの方法があった。後世には、この広範な習俗を「茱萸会」と表現することもあった。

王維の『九月九日憶山東兄弟』にある、

「遥知兄弟登高处,遍插茱萸少一人。」 遠くから思う。兄弟たちはいま高みに登り、皆が茱萸を身につけているだろう。ただ一人、そこに私がいない。

という句は、この風習を最もよく知られた形で伝えている。唐代には、髪に茱萸を挿すことが非常に一般的な重陽習俗となっていた。

文化的意味

茱萸には、災いを避け、疫病を防ぎ、健康を守り、長寿を願う意味が込められている。重陽の日に茱萸を身につけることは、身体の安全を願うだけでなく、命そのものを大切にする意識の表現でもある。

参加方法

茱萸の枝を身につけたり、小さな香袋の中に入れたりすることができる。生の茱萸が手に入らない場合には、中薬店で乾燥茱萸を探すこともできる。

伝統的な「茱萸絳囊(茱萸绛囊)」を手作りすることもできる。河南省上蔡県では、重陽節発祥の地の一つとされる地方伝承と結びつき、茱萸絳囊の制作技術が省級無形文化遺産に登録されている。植物の象徴的意味を学びながら、香袋を作り、身につけることで習俗を体験できる。

重陽糕を食べる

歴史的起源

重陽糕を食べる習俗は漢代まで遡ることができる。当時は「蓬餌(蓬饵)」と呼ばれる節日食品があり、植物と米粉などを用いて作り、供物としても日常食としても用いられていた。

唐宋以降、重陽糕の種類は次第に豊富になった。宋代の『東京夢華録(东京梦华录)』には、重陽糕の作り方や広く販売されていた様子が記されている。

明清期には、重陽糕を食べることが欠かせない節日習俗となった。その理由の一つは登高と関係している。山へ登れない場合でも、糕(gāo)と高(gāo)が同音であるため、糕を食べることで象徴的に「高いところへ登る」ことができると考えられた。そこから、「歩歩高昇(步步高升)」という、段階的に地位や運が上昇していく願いが込められるようになった。

習俗

重陽糕は重陽節を代表する食べ物の一つで、花糕、菊糕、五色糕などとも呼ばれる。糕と高が同音であるため、「歩歩高昇」や「何事もますます上向く」といった吉祥の意味を持つ。

作り方は地域によって大きく異なるが、米粉や小麦粉を基本とし、紅棗、栗、木の実、蜜餞などの季節食材を加えることが多い。

伝統的な種類には、香菜の葉で飾り、青梅、棗、胡桃などの乾果を用いた粗花糕、二層または三層にして細かく刻んだ蜜餞を挟む細花糕、構成は似ているが硬貨ほどの小さな銭花糕などがある。上部に色とりどりの小旗を挿すことも多く、登高のイメージを視覚的に表している。

河南では、栗粉と糯米粉に蜂蜜を混ぜて蒸し、棗餡を加えることもあり、仕上げに彩色した旗を挿して親戚や友人へ贈る。無錫では重陽糕と九品羹を食べ、紹興では重陽粽を作って贈り合う。

文化的意味

糕と高の同音関係により、重陽糕は上昇や発展への願いを表す。実際に山へ登れない場合でも、糕を食べることで象徴的に登高を代替するという考え方は、中国民俗文化において具体的な物や音の連想を通して抽象的な願いを表現する典型的な例である。

重陽糕は食の楽しみであると同時に、より良い暮らしへの願いを託す媒体でもある。家族や友人と贈り合うことで、食べ物そのものが祝福と親愛の表現となる。

参加方法

重陽糕は購入してもよく、自宅で作ることもできる。北方には粗花糕、細花糕などがあり、南方では桂花糕や栗糕なども見られる。

簡単な家庭版なら、糯米粉と米粉に水と砂糖を加え、紅棗や木の実を入れて蒸せば作ることができる。完成した糕を家族や友人と分け合うことも、伝統の一部である。

祖先を祀る

歴史的起源

重陽節の祖先祭祀は、先秦時代の伝統まで遡ることができる。秋の祖先祭祀は、古代中国の「秋嘗(秋尝)」の儀礼を受け継ぐもので、収穫後の新穀を祖先に供え、感謝と追憶を示すものであった。

漢代以降、重陽の祖先祭祀は、登高や菊の観賞と次第に結びついていった。明清期になると、重陽節には登高、飲酒、花見といった娯楽だけでなく、地方神、城隍神、竈神への祭祀、神への感謝としての演劇奉納なども含まれるようになった。

習俗

祖先を祀ることは、現在も重陽節の重要な習俗である。重陽節は、除夕、清明節、中元節とともに、中国の四大祖先祭祀日として数えられることがある。

九九と久久が同音であるため、重陽には「長く続く」という意味が加わり、祖先を偲び、孝道を重んじる日としてもふさわしいと考えられてきた。人々は祖先の墓を訪れ、墓地を掃除し、供物を並べ、先人の功績に感謝するとともに、その庇護を願う。

地域ごとの習俗も多様である。浙江桐廬では旧暦九月九日に豚や羊を用意し、秋の祖先祭祀を行う。紹興では親族間の往来が行われるが、最近亡くなった人がいる家では、霊位への弔問が行われることもある。福建や台湾でも、重陽は清明や中元と並ぶ重要な祖先祭祀の時期である。

家族は祠堂や墓前に集まり、供物を並べ、香を焚き、蝋燭を灯し、厳粛に拝礼する。

文化的意味

重陽の祖先祭祀には、伝統的な「慎終追遠(慎终追远)」、すなわち死者を丁重に送り、遠い祖先を忘れないという価値観が表れている。また、家族の結束を重視する思想とも深く結びついている。長久を象徴する日に祖先を祀ることは、亡き人への感謝と、その福が子孫に末永く続くことへの願いを意味する。

こうした祭祀は家族の結束を強め、家の記憶や価値観を次の世代へ伝える役割も果たしている。

参加方法

祖先の墓や祠堂を訪れ、掃除や修繕を行い、供物を用意し、香を焚いて拝礼することができる。現地へ行けない場合には、自宅で静かに追悼する方法もある。

歴史的な村落では、地域共同体による祖先祭祀を見学できることもあるが、非常に厳粛な儀礼であるため、適切な距離を保ち、許可なく撮影や介入をしないことが大切である。

敬老

歴史的起源

重陽節の敬老文化には非常に古い起源があり、先秦期の高齢者扶養の伝統まで遡ることができる。『礼記・月令』には、旧暦八月に高齢者を養い、几、杖、粥などを与えるべきだという記述がある。

この秋の高齢者扶養の伝統は、後世の重陽節における「敬老・祈寿」文化の最も古い源流の一つである。

三国時代の曹丕は『九日与鍾繇書(九日与钟繇书)』の中で、九(jiǔ)と久(jiǔ)の同音関係から、重陽を「長久に宜しい日」と解釈した。これにより、長寿は重陽節の重要な文化主題としていっそう定着した。

1989年には、中国で旧暦九月九日が敬老節と定められ、2012年には法律上、正式に「老年節(老年节)」として位置づけられた。

習俗

高齢者を敬い、いたわることは、現代の重陽節における最も重要な主題である。九九と久久が同音であることから、重陽は古くから長久・長寿を願う日と考えられてきた。

家庭では、成人した子どもが実家へ帰り、両親に寄り添い、好物を作り、会話をし、一緒に散歩したり、小さな贈り物や祝福の言葉を贈ったりする。社会では、ボランティアや地域団体が養老施設を訪問し、秋の外出、健康活動、文化娯楽などを企画する。地域コミュニティでは、敬老宴、文芸公演、健康講座などが行われることもある。

壮族の一部地域では、この日を「賀寿節」として祝うこともある。

文化的意味

重陽節の敬老は、物質的な扶養だけではない。家族との交流や社会からの関心を通じて、高齢者が自分の存在価値や家族の温もりを感じることにも大きな意味がある。

先秦期の秋の養老習俗から、現代の法定「老年節」に至るまで、孝親敬老の理念は数千年にわたって受け継がれ、現在も重要な文化的価値を持っている。

参加方法

両親、祖父母、その他の高齢の親族と時間を過ごすことが、最も自然な参加方法である。食事を作る、話をする、一緒に歩く、そばにいるだけでも、重陽の精神を十分に表すことができる。

地域では養老施設の訪問、敬老公演、ボランティア活動などに参加できる。遠方に住んでいる場合は、電話やビデオ通話でもよい。重陽糕、暖かい衣類、花など、小さな贈り物を添えることも敬意と愛情の表現となる。

凧を揚げる

歴史的起源

重陽節の凧揚げは長い歴史を持ち、春の清明節における凧揚げとよく似ている。春の凧には「晦気を放つ」意味があり、秋の重陽の凧には「辞青」、すなわち秋の最後の緑に別れを告げる意味があった。

そのため重陽は「辞青節」とも呼ばれ、清明の「踏青」と対をなす。人々は登高し、凧を揚げることで秋に別れを告げ、同時に幸運を願った。南方の一部地域では、重陽の凧揚げが清明以上に盛んになったところもある。

習俗

凧揚げは南方の重陽節を代表する活動の一つである。秋の空は高く澄み、適度な風が吹くため、凧揚げに適した季節である。地方によっては「放紙鳶(放纸鸢)」や「放鷂子(放鹞子)」と呼ばれる。

人々は凧を秋空高く揚げ、象徴的に「災いを送り、福を迎える」ことを願う。家族で郊外へ出て一緒に揚げたり、地域で競技大会を開いたりすることもある。

伝統的な凧には蝶、燕、ムカデ、人形などさまざまな形があり、願いを書いてから揚げることもある。凧が高く上がるほど願いが叶いやすいと考えられた。

一部地域には「放断鷂」という風習もあり、凧が十分に高く上がったところで糸を切り、そのまま風に任せて飛ばす。これには、その年の災厄を凧とともに遠くへ送り出す意味が込められている。

文化的意味

重陽の凧揚げは、自然との親和と、より良い暮らしへの願いを表している。広い秋空を自由に飛ぶ凧は、自由、高み、向上心の象徴でもある。

凧を遠くへ放つ風習には、災いを送り、新しい未来へ進むという意味がある。

参加方法

重陽の日には、公園や郊外の開けた場所で凧を揚げることができる。市販のものを使っても、自分で作ってもよい。

電線、道路、空港、密集した樹木から離れた広く平らな場所を選ぶことが重要である。伝統的な「糸を切る」習俗は、法律や環境面で問題のない場所に限るべきであり、現代ではゴミや危険を生まないよう、凧を回収する方法のほうが望ましい場合が多い。

その他の民俗活動

騎射

南北朝から唐宋期にかけて、重陽節には騎馬や射箭も行われた。もともとは北方民族の軍事訓練に由来するが、後に季節の競技へと発展した。参加者は騎馬と弓術の技を競いながら身体を鍛えた。特に北方地域で盛んであった。

晒秋

重陽は「晒秋」にも適した時期である。湖南、江西などの山間部では、収穫した唐辛子、トウモロコシ、南瓜などを屋根、窓辺、晒し台に並べて乾燥させる。伝統家屋の前に鮮やかな農作物が並ぶ景観は、独特の「晒秋図」を生み出す。

これは食品を乾燥・保存するための実用的な作業であると同時に、豊作を視覚的に祝う民俗文化でもある。

羊肉麺を食べる

北方の一部地域では、重陽に羊肉麺を食べる。羊(yáng)と陽(yáng)の音が近いため、羊肉は陽気が盛んなことを象徴すると考えられる。また、羊肉は身体を温める食材とされ、秋から冬への季節の変わり目にも適していると考えられてきた。

菊花酒を仕込む

菊花酒は飲むだけでなく、仕込むことそのものが習俗となっている地域もある。重陽の日に菊を採って酒を仕込み、一年封じて翌年の重陽に開ける。

一年待つという時間そのものが儀礼の一部であり、次の年の重陽を待つ象徴的な行為でもある。

登高と詩作

登高と詩作は、伝統的な文人雅集でもあった。唐宋期には、文人たちが高所へ登り、酒を飲み、菊を眺め、詩を作り合い、多くの重陽名詩を残した。

現代でも、詩社や文化団体がこうした形式を再現することがある。

重陽廟会

地域によっては重陽に廟会が開かれる。伝統劇、雑技、民間遊戯、飲食屋台、祭礼演目などが行われ、信仰の場であると同時に、地域の娯楽と交流の場でもある。

地域による違い

地方の風習
十里ごとに風が変わり、百里ごとに習俗が異なる。広大な大地の上で、地域ごとの祭りの習俗はそれぞれ特色を持ち、中国文化の極めて豊かな多様性と包容性を示している。

華北

北京:登高と菊の観賞が中心で、景山は代表的な行楽地の一つである。かつては菊を四方に積み上げ、塔のように仕立てた「九花塔」を飾る習俗があった。現在では、公園や民俗博物館で九花塔を再現したり、敬老をテーマとする行事を開催したりすることもある。

天津:登高、菊の観賞、重陽糕、菊花酒などが主な習俗である。

河北:香河県では、姻戚関係にある家同士が祝いの品を贈り合う「追節(追节)」という風習があった。

山西:呂梁地域では、無形文化遺産として「寿糕」を蒸す習俗が残る。生地を寿桃、松柏、鶴などの形に作り、長寿と末永い福を象徴する。

内モンゴル:オルドスなどの牧畜地域では、民族衣装を着て馬頭琴を奏でたり、若者が年長者からモンゴル族の伝統的な頭飾り作りなどの無形文化遺産技術を学んだりする。

東北地方

遼寧・吉林・黒竜江:登高、菊の観賞、重陽糕など、中国各地と共通する習俗が多い。一方で、満洲族、中国朝鮮族など各民族にも、それぞれの季節文化が残されている。

華東

上海:重陽糕のほか、九品羹と呼ばれる「九種類」の材料を用いた伝統的な羹料理を食べる。

江蘇:南京では五色の紙を旗の形に切り、庭に飾る。無錫では重陽糕と九品羹を食べる。常州では、小麦粉で作る「駱駝蹄(骆驼蹄)」という食品がある。蘇州では重陽糕と登高の習慣が続いている。塩城では城門楼、寺院の塔、避潮墩などに登り、蟹を食べることも季節習俗の一つとされる。

浙江:杭州では西湖周辺で菊花展が開かれ、無形文化遺産の伝承者が菊花酒の伝統的な醸造法を紹介することもある。紹興では親戚や友人を訪問する。桐廬では豚や羊を用意して「秋祭」を行い、祖先を祀るほか、「重陽粽」を作って贈り合う。

安徽:淮北では発糕(发糕)を重陽糕として食べる。休寧では臨渓重陽廟会が開かれ、獅子舞、勝利鼓、鍾馗の演目、民俗行列などが行われる。霍邱では秋晒しの習俗が残る。蕪湖では茱萸や艾草など、香袋に用いられる伝統薬草について紹介する活動や、香袋の配布などが行われる。徽州には「抬汪公」と呼ばれる祭礼行列がある。

福建:福州では于山や烏山へ登り、節ごとに段があることから「節節高(段々と高くなる)」を象徴するサトウキビを携えることがある。九重糕/粿は欠かせない食べ物である。莆田では重陽の祖先祭祀が清明以上に重視されることもあり、「三月小清明、重九大清明」という言葉がある。旧暦九月九日は媽祖昇天の日ともされるため、湄洲島の媽祖廟には多くの参拝者が訪れる。また、菊と茱萸を編んで高齢者に贈る「孝親簪花」という無形文化遺産も残る。閩南では滋養のある食べ物をとる「補重陽」の習慣がある。閩西客家の廟会では、「過火海」などの儀礼が行われることもある。

江西:婺源は「晒秋」で有名で、赤い唐辛子、黄色い菊、トウモロコシ、南瓜などを晒し台に並べる。上饒広豊では糍粑を作る。贛州では山芋を使った揚げ餅の薯包を食べる。宜春には季節酒を蒸し、醸す習俗がある。

山東:泰安では泰山登山が重陽の代表行事で、伝統的には岱廟から頂上へ向かって登った。魯北では辛い大根スープを飲み、「大根湯を飲めば、一家が災いを免れる」という言い伝えがある。

華中

河南:開封の龍亭公園では大規模な菊花展が開かれる。

湖北:酒造りが重陽の習俗の一つで、この日に仕込んだ酒は特に澄み、長期間保存しても傷みにくいと伝えられる。黄陂の大余湾では、作物を福や寿などの吉祥文字の形に並べる秋晒しが行われる。公安県では高齢者を餃子でもてなす敬老行事もある。

湖南:南岳衡山では、「万人同食長寿麺」と呼ばれる大規模行事が開かれる。鳳凰では苗族家庭が重陽に鴨を食べ、嫁いだ娘が親に大きな鴨を贈ることもある。郴州永興県では韓三侯祠重陽廟会が開かれ、省級無形文化遺産に指定されている。

華南

広東:広州では登高が最も重要な習俗で、市級無形文化遺産に登録されている。風車を持って山を登り、「登高して運を回す」ことを願う人もいる。凧揚げも盛んで、「重陽に登高して凧を揚げれば、千の災いが消える」という言い伝えがある。佛山では祖廟で秋祭が行われ、儀礼行列、供物、焼豚の切り分けなどが行われる。恵州では凧揚げ、潮州では油麻団(油麻团)を作って贈り合う。台山の水歩鎮では牛肉を食べる習慣がある。連州では「抬大神」と呼ばれる儺の演目が伝わる。

広西:壮族には「添粮补寿(穀物を足して寿命を補う)」という特徴的な習俗があり、若者が新米を高齢者の「寿缸」に加える。陽朔、環江などでは甘い米酒を仕込み、飲む。融水の苗族は重陽酒を醸す。広西の一部地域では、この日に墓参りをすることもある。

海南:登高、茱萸、重陽糕の贈答のほか、「赶山猫」と呼ばれる地方習俗もある。瓊海、文昌、万寧などでは、艾草を煮出した水で髪を洗ったり、入浴したりする習慣があった。

香港・マカオ:香港では、重陽は重要な秋の祖先祭祀の日であり、人々は墓参りをして祖先を祀る。マカオでは法定休日で、家族が墓参りをし、焼豚や生花を供える。ギアの丘に登って福を祈る人もいる。一部地域には鶏屎藤餅(鸡矢藤饼)を食べる習慣も残る。

西南地方

四川:南渓県では、かつて文人たちが重陽の日に龍騰山の岑山楼へ集まり、これを「岑公会」と呼んだ。もち米を使った重陽酒を醸す民間習俗もあった。

重慶:登高、重陽糕、茱萸が主な習俗である。石柱県では糍粑や餃子を作る習慣もある。

貴州:茅台鎮では毎年、重陽に祭水大典が行われる。黔東南黎平県の侗族村寨では、重陽が結婚相手探しや縁談の集中する時期でもある。土家族は糯米餅を作り、「重陽に餅を打たなければ、虎が母を噛む」という古い言い伝えもある。安順屯堡では、穀物を加える儀礼を通して孝道を伝える「添粮节」がある。

雲南:昆明には五色の小旗を挿した菊花糕があり、絶えず上昇していくことを象徴する。歴史的には、雲南の一部地域で旧暦九月一日から九日まで「九皇会」が行われていた。

チベット:主な活動は登高と菊の観賞である。ラサでは、ポタラ宮下の宗角禄康公園で高齢者が運動し、健康を意識しながら重陽を過ごすこともある。

西北地方

陝西:関中では娘や甥に柿を贈り、地域によっては重陽を「柿子節」と呼ぶ。咸陽には「追節送花糕」の習俗があり、陝西省の無形文化遺産に指定されている。隴県では、豊作を象徴して親戚同士で花糕を贈り合う。西安の農村部では、嫁いだ娘に実家から花糕や曲連饃を届けることがある。

甘粛:甘粛中部では、高齢者を敬う「追節」と、「登高望祖」の習俗がある。甘州では登高、菊花酒、女性の茱萸着用などが行われる。

青海:西寧周辺では、かつて登高と「鹿馬」と呼ばれる象徴的な紙を放つ習俗があった。また、薬局で薬用菊を購入し、酒に漬けることも行われた。

寧夏:登高、重陽糕、茱萸、菊を髪に挿すことなどが主な習俗である。

新疆:各民族がともに祝う地域もあり、ポロを食べ、重陽糕を味わい、競馬を見るなどの活動が行われる。茱萸の香袋を作ることもある。

台湾:中国大陸と共通する習俗が多く、登高、茱萸、重陽糕としての米菓、菊の観賞、菊花酒、凧揚げなどがある。九(jiǔ)と久(jiǔ)が同音であることから、敬老の節日としても重視され、高齢者にお金を贈ったり、両親のために豚足麺線を用意したりする習慣もある。

結び

余韻

重陽節の民俗伝統は、災いを避け、長寿を願うことを中心に展開してきた長い文化の物語である。高所へ登る力強い姿から、菊を眺め酒を味わう風雅へ、茱萸を身につけて邪を避ける古い信仰から、重陽糕に込められた上昇への吉祥の願いへ、祖先を祀る厳粛な儀礼から、現代の敬老・養老へと、重陽節は生命への畏敬、健康への関心、長寿への願い、そして祖先や高齢者への感謝を、一つの文化体系の中に結びつけている。

歴史的に見ると、重陽節はまず「避災」の節日であった。古代の人々は旧暦九月九日を、「陽極必変」、すなわち陽の気が極まり変化へ向かう日と考え、それに伴って災いが起こる可能性を意識した。災厄を避けるための登高、邪気を払う茱萸、疫病を遠ざける菊花酒といった習俗は、こうした不安に対処するための象徴的な儀礼体系を形成していった。現代から見れば迷信的に映る部分があったとしても、その背後には、古代社会の人々が生命の安全を強く願い、不確実な世界に儀礼を通して向き合おうとした姿がある。

同時に、重陽節は「祈寿」の節日でもある。九九(jiǔjiǔ)と久久(jiǔjiǔ)が同音であることから、この日は自然に「長く続く」「長寿」という吉祥の意味を帯びるようになった。曹丕が重陽を「宜於長久」の日と解釈したことから、漢代の文献に見られる「人を長寿ならしむ」という考え、そして現代の老年節に至るまで、長寿と敬老という主題は二千年以上にわたり中国文化の中を流れ続けている。

重陽節の習俗は最終的に、避災と祈寿という二つの主題を一つに結びつける。避災は生命の安全を守ること、祈寿は生命が長く続くことを願うことにある。避災は現在の健康と安全を守ろうとし、祈寿は未来へと視線を向ける。高所へ登る人の姿には、その両方が重なっている。災いから遠ざかるために登ると同時に、より遠い未来を眺めるためにも登るのである。菊花酒にも同じ二重の意味があり、病を防ぐ象徴的な飲み物であると同時に、長寿を祝福する酒でもある。この「現在を守りながら未来を見つめる」という文化的な発想こそ、重陽節が長い時代を超えて生命力を保ち続けてきた理由の一つである。

2006年、重陽節は中国の第一回国家級無形文化遺産名録に登録された。2012年には、旧暦九月九日が法律上正式に「老年節」と定められた。古代の天文・季節信仰から国家レベルの文化遺産保護へ、避災のための古い儀礼から、現代の敬老・養老へと、重陽節は二千年以上の時間を越えながら、その独自の文化的生命力を保っている。

重陽節の習俗は、中国文化における「天人合一」の理念を具体的に示すと同時に、「孝親敬老」という倫理を日常生活の中で表現するものでもある。避災と祈寿のあいだで、重陽節は今なお、生命、健康、老い、記憶、そして孝の責任をめぐる深い文化的対話を続けている。

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